木曜島の日本人ダイバー
典拠は司馬遼太郎さんの『木曜島』です。
木曜島という島がある。
日本の東京あたりから真っ直ぐ南に下がり、赤道を超えて千キロぐらいのところにある。オーストラリア側から見ると、西側の北端に位置している。
珊瑚に囲まれた小さな無人の島に、明治から昭和の初めまで、八百人の日本人が暮らしていた。
もぐって、高級ボタンの材料となる白蝶貝を採っていたのだ。戦後、プラスチック製のボタンが普及するまでは、ヨーロッパの貴婦人の胸を飾った。
この海域に白蝶貝が生息していることは英国人のあいだでよく知られていた。しかし当初、海底にもぐって貝を採る、その任に適したものがいなかった。
英国商人が親方になって、初めは、ニューギニアの原住民をもぐらせたが、失敗した。彼らには、お金を稼ぐという欲がなかった。まだ、貨幣経済がなかったし、海底を好まなかった。
そのあと、マレー人を雇った。貨幣経済はあったが命がけでお金を得ようとはしなかった。ダイバーになるより船上の水夫になりたがった。たまにダイバーになっても腕前を上げるような情熱はなかった。
中国人は古くから貨幣を使い欲もある。十九世紀末には、華僑は豪州にも進出して広く経済活動をした。しかし、唯一昔から漢民族は、海が苦手だった。泳いだりもぐったりできない。英国人は中国人をダイバーとして使うことをあきらめた。
白人も試された。実験のために七人の英国人元水兵が雇われたが、ごく短期間のうちに、潜水病で三人が死んだ。残った四人は一日五、六回しかもぐらなかった。
日本人ダイバーは一日五十回ももぐった。
豪州の大学の論文に次のようにある。
「日本人の特徴は、高い賃金を得たいという熱望であった。手当が歩合制のため、日本人ダイバーは太陽が出ているかぎり働くというほど熱心だった。また、日本人は金銭を得るためなら、大きな危険をおかすことをいとわなかった。日本人ダイバーの死亡率は毎年一〇パーセントであった」
一割が死ぬ職業に進んで就く日本人は、尋常ならざる民族として受け取られていた。
鎖国が解けて間もない明治六年、英国人に連れてこられた一人の日本人が海にもぐったという伝説が木曜島にある。まだチョンマゲを結っていた。
伝説の真偽は確かではないが、明治十六年、日本で最初の乗組員募集の記録が残っている。
いずれにしても、世界中いろんな人種のなかで、送気式ヘルメット潜水で、貝を探す仕事の唯一の適格者は日本人だった。
維新後、日本は本格的な貨幣経済に転換した。税金が米納から金納に変わった。それまで自給自足の農民が、急に現金が必要になったのだ。
和歌山県出身の元日本人ダイバーは次のように証言している。
「豪州へ渡ったことについて、動機もなにもない。われとわが身を売って行ったようなものだ。あのころわずかしか出回っていなかったお金は、わしらのところには来なかった。御一新このかた、金が無うては生きてゆけんような時代になった。むこうで死のうが生きようが、金というものを掴んで帰らんことには、一家眷属どうにもならんかった」
金銭への強い欲望があった。
「日本人は仲間同士の競争がはげしかった。わしが、ダイバーに昇格したころは、日に五トン揚げて五トンダイバーということで大変な鼻息だった。欲得というか、こけんにかかわる競争だった(白人はせいぜい日に一トン揚げれば上等だった)。やがて日本人ダイバーに五トンダイバーが幾人も出てきた。それからは日に七トン、八トン揚げ、最終的には日に十二トンになり、一日中海底にいた」
太平洋戦争勃発後、木曜島の日本人は全員捕虜となり、その歴史に幕を閉じた。
昨今、競争とか、がんばるという言葉が否定される。仏教は少欲知足を説く。
日本人ダイバーの命がけの働きは、がんばりであり、競争であった。