国郡志

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概要

国郡志は今(2013)から約200年前、お上に提出された大字(当時は村)単位の報告書である。西城町では昭和29年、それぞれの民家(昔の庄屋)に保管されていたものが、堤庫三氏の先導により集められ一冊の本にまとめられた。

発刊のことば(途中略)

国郡志発刊のことば

国郡志は広島藩の儒者頼杏坪が藩主浅野斉賢公の命によって、芸藩通志編纂の資料を得るため、文化八年(1811)藩内の各村庄屋に通達して、その村の地理、歴史その他重要の事項を調査提出せしめた報告書である。

この報告書の表紙には『国郡志御用に付下しらべ書出帳』と書いてあるが、書名としてはあまり長いので一般には『国郡志書出帳』又は単に『国郡志』といわれている。

…略…その村の国郡志の写本は現在左の諸家に所蔵されている。…略…。

…略…難解の語句が使用してあるので、…略…その語句を平易に改め、これを活版に付し、…略…多大な支援を得、…略…完遂を見るに至った…略…

昭和二十九年二月四日

比婆郡西城町郷土研究会長 堤庫三

近藤家に関する記述

西城町の旧家の歴史や所持品が報告されているが、その中の西城町与頭・大屋村庄屋、吉郎次が近藤家である。

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遠祖の吉原周兵衛は入江村の内、尺田温湯谷に住居して耕作を本業とし、傍ら鈩、鍛冶屋を営んで数代に及びましたが、明暦年中、男子女子各壱人あつて男子には家督を継がせ、女子には雲州松江御家中、近藤氏の子息五郎兵衛を聟とし、其の夫婦を西城へ分家し、家名を尺田屋と号しました。此の時から姓を近藤と申し五郎兵衛は後に改名して市兵衛と言い之が元祖であります。この時、檀那寺栗村浄久寺大破に付き市兵衛力を尽して修覆を加え諸物を寄付したため同寺も昔の景観に復し同寺から中興と仰がれました。初代市兵衛死後其の子市兵衛相続し其の子伊右衛門享保三年西城町御鉄元〆役仰せ付けられ其の子市兵衛は西城町年寄を勤め享保年中割庄屋役を仰せ付けられました。初代から吉朗次まで八代で、 七代までは実子相続をしましたが七代市兵衛早世で弟吉朗次が相続しました。遠祖からの書類記は安永五年類焼したため詳細には書き上げられません。

尺田に関する記述

尺田におけるたたらは享保のころ不繁昌になったとある。

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